久米篤憲氏は、独立行政法人雇用・能力開発機構の千葉職業能力開発促進センターに在籍する能力開発企画員兼機械系指導員である。久米氏は機械加工を専門とする他に、指導技術やカリキュラム開発の実践家でもある。特に海外での技術協力・指導に多くの実績を残している。
久米氏が千葉県内の企業に対して、技術・技能伝承に対するニーズ調査他を行っていたが、その途上で小出ロール鐵工所へ企画員として訪れたのがきっかけであった。
小出ロール社の技術・技能伝承への取組みへの考えを伺ったと聞いている。さまざまな技術・技能伝承の取組みへの熱意や考え方に、他では感じられないものをもっていると久米氏は語っている。
このページは、久米篤憲氏に執筆いただいたものをもとにして加筆しました。
小出ロール鐵工所は千葉県にある。久米篤憲氏は、クドバスの実践や企業内教育への支援をする専門家である。とりわけ海外での活躍がめざましいものがある。久米氏が千葉にある能力開発施設に勤務したことが、同社との出会いとなっている。同社は、製紙工場や製鉄所などで使用される各種ロールや、大型圧延ロール等を製作する会社である。現在は従業員数90人の中堅企業である。2004年に創立90周年を迎えた。実際にロール加工に携わる作業者の数は、工場長以下64人であり、平均年齢が33歳と若い。ちなみに作業者の年齢構成は、20歳未満3人、21~30歳26人、31~40歳20人、41~50歳7人、51歳以上8人である。(2005年現在)勤続10年未満の作業者が33人と半数以上を占めており、工場や設備の拡充に伴う作業者の増員計画もあって、まさしく作業者の世代交代が背景にある。技術・技能伝承の取組みが緊急の課題となっていた。
同社の場合、直径1mを超える圧延ロールで、しかも長さが12mにも及ぶロールの切削が行われている。いわゆる金属加工や一般ロール加工とは異なる、特殊なノウハウ(基幹技能)が強みである。このノウハウの伝承は、一般的な教育訓練の受講では達成できないことは、容易に想像できる。もちろん、外部の能力開発施設の行う研修を受講することで、切削理論や測定法など一般的な加工に関する技術・技能教育は可能である。それらは確かに重要であるが、単に入社の条件であったり、入社時に行う研修である程度は達成できる。問題は口承(口伝)や、従来のOJTによる指導法では困難な「技」を、どのように伝承するかにあった。一概に「熟年者=ベテラン作業者」とは定義できないが、この時期に、41歳以上15人のベテラン作業者が有するロール加工の技を、40歳以下49人の作業者に伝承する取組みを始めることは、同社の今後の存続や発展に大きく影響することは間違いの無いことだろう。
久米氏は技術・技能伝承に取り組む手段として、まず図表6・16のようにクドバス手法を用いて、12作業分野のクドバス・チャートを作成することから始めた。次に、完成したチャートからチェックリストに変換して、社員の能力の現状評価を実施することにした。また、実際のマップ作成には、工場長はじめ現場のリーダー及びサブリーダーなど、ロール切削のベテラン16人が携わった。この会社の生命線ともいえる基幹社員をこの作業に惜しみなく投入した。以下、久米氏の文章によってその軌跡をたどることにしよう。
マップ作成の手順は図表6・16にあるように、現場のどこにマップが必要となるかの検討から始めた。その結果、会社の作業グループ毎に頻度の高い作業や製品に注目して、11枚のクドバス・チャートが整備された。特にクドバス作業時には、現場の代表的な加工図面を囲んで「図面を読みながら」カードを記入し、討議することで、必要能力の洗い出し精度を高める工夫がなされた。
また、一般作業者とは別に、各グループに配置されているリーダーやサブリーダーの役割を明確にし、リーダーとしての質の向上や次世代のリーダー育成を狙ったクドバス・チャートも作成した。この作成には、もう1つの期待があった。それは、ロール加工テクニシャンに求められる技術・技能と、社員に求められる態度を分けることで、社会人として必要な能力資質をまとめることにあった。
企業にとって理想的なリーダーとは、卓越した技と管理能力そして人格である。マップ作成過程で、現役のリーダーたちがそれらを再確認することで、部下に対するときの姿勢が明確になり、現場の雰囲気に反映されるはずである。
技能伝承の取組みで最初の課題は、伝承すべき作業を洗い出すことにある。それが「技術・技能マップ」の整備である。特筆すべきは、各能力の重要度の決定方法である。図表6・17に、「研削盤によるロール加工」のクドバス・チャートをサンプルとして示した。
具体的には、アップ作成作業の開始前に、能力カードの記入に際して以下のようなルールを設けた。
また、これらの教育項目(洗い出した技術・技能)に教育の重要度を決定する段階で、重要度の決め方にもルールを設けた。
一般的に、重要度を決める場合は、「作業頻度が高いので重要だ」という捉え方と、「習得するのが難しいから重要だ」という2つの「重要性」が混乱を招いてしまう。
ここでは、技術・技能伝承という課題の解決が目的であるので、『重要度=難易度』と決定して、その難易度を以下のようにA、B、Cにランク分けした。
この結果、アビリティカードに「○○ができる」+Aランクを、社内における技術・技能伝承課題と位置づけて、社内に定着しているTG活動(Thinking Group)を活用して、「技術・技能伝承マニュアル」作成を開始することとした。ちなみに、大まかな教育の方法として、以下のような対応を考えている。
そして、今後の企業内教育の体制づくりの活動は、まず、完成したクドバス・チャートをもとにチェックリストを作成し、作業者全員の技量評価を実施する。次に各作業者に必要な(不足している)教育項目を設定して、可能なものから教育を開始する。そして、全社的な取組みとするために、事務や経理分野にもマップを整備していくことにした。
製造部加工グループの作業スケジュールを、図表6・18に示した。
同社では、6回にわたって「技術・技能マップ」の作成作業を行った。その第1回目は、9月中旬の土曜日だった。メンバーは工場長はじめ6人で、夜勤明けのメンバーもいた。残暑の中、風圧でカードが飛ぶのでエアコンを止め、夕刻まで汗だくで作業に取り組んだ。彼らにとって休日出勤の上に、ロール加工作業をここまで細かく分析することに意味があるのか疑念もあったと思う。しかし、作業が始まると、どのメンバーも競うようにカードを書き上げた。
苦労したのがカードの書き方で、「○○できる」と「○○を知っている」の表現だった。「知っているからできるのだから…」という前提が、なかなか脳裏から離れないのである。そのたびに「若手を指導するときにやって見せるのか、言って聞かせるだけで分かるのか」を強調した。そうすることで、完成したマップの各項目が、即教育方法を連想させるからだ。
もう1つの苦労は、各カードにA、B、Cの難易度を決定することだった。ベテラン作業者にとっては、「あれもこれも簡単なこと」が多い。若手のころに、先輩から叩き込まれた苦労を忘れてしまっているかのようだった。その場面では、教育担当者のSさんの存在が大きかった。Sさんは製鉄所に永年勤めた後に品質保証部長として会社に移り、嘱託となった今も教育担当者として、今回の教育体系の構築に携わっている。
加工作業の経験のないSさんにとって、カードに書かれた多くの内容が難しいと感じるものだった。「それはそんなに簡単には身に付かないでしょう?」と言うSさんの意見に、他のベテランメンバーは「そんなものかな…」と、再度作業者としての生い立ちを思い出し、若手の立場に戻って難易度を協議した。
数年後、会社の発展が現実となったとき、その大きな要因はこのマップ作成時の作業そのものではなかろうか。現役のリーダー達が書き上げた必要能力と、自ら決定したそれらの難易度は、この作業の翌日から現場で若手に向き合うリーダー達に、何らかの変化を与えたはずである。それは、指導するときの「相手の立場を理解することで指導が丁寧になる」ことや、「この作業は難しいから、どうやって教えるとわかりやすいかと言った、問題解決への観察や思考が無意識に行われる」等だと期待している。このリーダー達の姿勢は、会社にとって何よりの財産だと思える。
この会社の社内教育は、製造部にとどまらず営業部や経理部および品質保証部など、スタッフや事務部門まで対象者を拡大し、工場長や部長級から一般の作業者や女性まで全従業員88人とし、体系的・システム的な取組みを開始している。
今回の取組みに、側面的に支援する立場として立ち会って学習したことは、企業内教育に最も必要なものは、経営陣の教育訓練に関する懐の広さ(理解)と、経営陣から作業者にトップダウン的に与えられる教育機会ではなく、現場のリーダーを巻き込んだ教育体制の構築作業が行える環境の有無であった。特に、休日出勤や夜勤明けにもかかわらず、マップ作成に取り組んだリーダー達に頭が下がる思いだった。
久米氏と小出ロール鐵工所の取組みははじまったばかりと言える。しかし、これまでの軌跡で得たものは大きかったと言えよう。これを基礎にして未来を拓いて欲しいものだ。
(森 和夫著「技術・技能伝承ハンドブック」より転載)